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文成小学校誕生秘話
昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、昭和20年8月に日本の敗戦で終結しました。
この戦争中、池袋本町の子供たちは長野県湯田中方面の村に学童疎開をしていました。お父さんお母さんと離れて、子供たちと先生だけでお寺の境内などで集団生活していたのです。
その生活から戻ってきたのは昭和20年の11月のこと。現在の池袋第二小学校の場所にあった学校は戦禍で燃えてしまっていたので、子供たちは要町小学校の東側校舎(3年生~6年生)と重林寺(1、2年生)に分かれて、そこを臨時校舎として勉強を始めました。
ちなみに現在の池袋第二小学校の場所にあった学校は池袋第六小学校、池袋中学の場所にあった学校は池袋高等小学校だったそうです。
池袋第二小学校では、当初バラックを建てていましたが、児童数が急増して、昭和22年に木造校舎の建設が始まりました。
増築に増築を重ね、24学級、一学級50名の学校となり、講堂もできて小学校が完成しました。
ところがさらに児童数は増え続けて、ついに1、2学年は教室に入りきらず、午前と午後の二部授業を行う様になりました。
そこで昭和27年、都に分校建設を申請。新しい小学校を造ることになりました。
問題はどこに造るかです。幸いなことに、現在の文成小学校のある場所には、約400坪の空き地が残っていました。
当時の先生・PTA役員方の努力により、戸田橋に住んでおられた地主さんとの粘り強い交渉の末、小学校を建てる場所の中核が決まりました。より環境のよい学校を創るため、周囲に住んでいる方々(19軒22世帯)にお願いして、現在の文成小学校用地が確保されました。
小学校建設予算として150万円を必要としましたが、当時の日本の公的機関にその予算を工面する力はなく、建設には150万全額を住民の寄付にすがるより他に方法はありませんでした。
この時代の貨幣価値は現在の約8倍になります。150万円は現在の価値にすると1200万円!
終戦直後の日本にあって、生きるのがやっとという時代に子供たちの教育のため、多くの人々が勧んで寄付に参加しました。その結果、240万円もの寄付金が集まりました。
文成小学校は経済的には貧しくとも、子供たちをしっかりと教育して、二度と戦争を起こさない立派な国を作りたいと考えた地域住民の熱意によって生まれた学校なのです。